No.8   2006年10月発行
  制作:宮川誠子後援会
社会の問題は、政治家の責任
社会は共同体です。その構成員でなる全ての人に、その立場立場で責任があります。今、あまりにも社会に無責任が溢れている、社会がおかしくなっているのはそのせいだと思っています。
そしてそれは、社会の経営者である政治家にこそ責任があるのです。
将来に希望の持てない今の日本
今の日本は、一体どうなってしまったのでしょうか。親殺し、幼児虐待、少年犯罪など悲惨な事件が起こっている一方で、耐震偽装事件、パロマやエレベーターなどなど、次々に起こる会社ぐるみの隠蔽体質の末の事件・事故。そして、社会保険庁の問題や県庁の裏金問題などなどの公にはびこる呆れた実態。この社会、公も民も責任を感じない人間が覆いつくしているように感じます。
青少年の問題が多くなる中、これらの社会問題の原因は戦後教育にあるとして、教育改革を唱える人たちが多くなっています。もちろん教育は大きな課題ではありますが、しかし、なんでもかんでも教育のせいにするのは浅墓だと感じています。
責任を取る者のいない社会は歪む
子供の問題は大人の責任です。どんな不始末をしても誰も謝らない、誰も責任を取らない、ばれなければ何をしてもいい―周りを見渡せばそんな大人しかいなかったら、子供がまともに育つはずがないと思いませんか。
責任を問われない官僚機構
年金受給者が増えたからといって、年金制度が改悪されていますが、国民から集めた多額の年金資金をジャブジャブ使い、運用しては何億何十億の穴を開けたとき、誰がその責任を問われたでしょうか。グリーンピアなどの保養施設をつくり、経営が成り立とうと成り立つまいとお構いなしで資金を激減させた責任は誰が取ったのでしょうか。このことで官僚の首が飛んだという話は聞いたことがありません。責任を問われない組織の中にいれば、責任ある仕事をするものなどいなくなるでしょう。
官僚と馴れ合いの政治家
そして、一番の問題は、社会保険庁のこれらの問題に、責任を感じている国会議員はいるのかということです。社会保険庁は国の機関です。そうであれば、その責任は政府と国会にあるのは自明の理です。
しかし、その責任を果たそうとする国会議員はほとんどいないのではないでしょうか。何故なら、社会保険庁の潤沢な資金に目をつけ、その資金を使わせたのは、国会議員そのものではなかったのかと思うからです。責任を問えば、自分が危ない、そんな馴れ合いの中では、誰も責任を追求しないし、責任を取らない―この悪循環の構図が今の日本に蔓延していると思えてなりません。
政治家は暮らしの経営者
会社の経営者が社長であるように、社会の経営者は政治家です。政治を目指すということは、社会、つまり人々の暮らしや生活のあり方に責任を持つ覚悟をするということです。そして、信念に基づいて自分の理想とする町づくりの実現に邁進するということです。
そんな責任と覚悟のない政治家が増えたら、この社会はどうなるのでしょうか。今の日本がそうなっているのではないでしょうか。責任を取るべき立場の人間が、その責任を自覚して行動する、その当たり前のことがなされなければ、社会は秩序を失います。
民主主義とは
過去、2期の安芸津町議会議員の経験の中で、民主主義とは多数決のことだと思っている人が多いことに驚きを感じてきました。民主主義の一番大きなことは、自分たちの暮らしのことは自分たちで決めるということです。つまり、誰にこの社会の舵取りを任せるかは、有権者が決めるということです。
選挙で誰を選ぶかは、自分たちの暮らしに跳ね返るのだということを自覚して選挙にあたらなければ、政治家を非難する資格もない、それが民主主義なのです。
言い換えれば、誰もが社会の構成員であるということを自覚し、その自覚の元に責任を持って行動する、そのことこそが、この社会を良くするただひとつの道であるということではないでしょうか。
地方自治こそ町づくりの基本
人々の暮らしのことは、人々に一番近い地方自治体に任せるべきです。権限と金を地方に委譲する、それが地方分権です。地方分権の受け皿になるために、不利な合併をも選択したのです。
合併は終わりました。これから先にすることはただひとつ。それは、自覚を持った市民と共に、市民の求める町を一緒に作っていく、それができる行政機構を整備する、そのことに他なりません。
自分たちが暮らす町だからこそ、みなさんと一緒につくって行きたいと思っています。町づくりに参加してください。一緒にこの町をつくりませんか。
市議会の動きから
―新庁舎建設計画、私はこう思う―
蔵田市長は、新庁舎建設の3年間凍結を掲げて選挙戦に勝利しました。この方針の下、新庁舎建設にかかる予算を計上しなかった市執行部の姿勢を不服とした市議会の過半数は、予算を修正し、建設費用を予算化しました。これに対して、市長は再議を請求し、結果として修正予算化された新庁舎建設費は否決されるに至りました。再議にかけてまで、信念を通した蔵田市長の姿勢は立派だと思います。
20万都市を標榜する東広島市であるなら、新庁舎は必要かもしれません。そして、新庁舎を建てるなら、合併特例債が利用できる合併後10年間しかないでしょう。しかし、現在の庁舎と同じ場所に建設するとしたこれまでの計画には疑問を感じていました。
町づくりを描くなら、大きな絵をかかなくては意味がありません。既存の場所にせせこましく高い金をかけて建設するより、新しい街をつくるくらいの気概で、安い土地に広く町づくりの絵を描く、そんな大胆さがあってもいいのではないでしょうか。
町を描くなら、既成の概念にとらわれない大胆さと繊細さが欲しいものだと思っています。
共に生きる 連載
―地域社会を守るために―
戦後、日本人は、豊かにさえなれば幸せになれると信じ、馬車馬のように働いて来ました。その結果、日本は経済発展し、周りを見渡せば物質が溢れています。しかし、今、何かが違うと感じている人は多いのではないでしょうか。物質的に豊かになっても、大切なものを失ってしまったのではないか、そんな気がしています。
ものはなくても、かつてあった地域社会の暖かさや人のぬくもり、守られていた最低限のルール、もう一度取り戻さなければ、この社会は壊れてしまうのではないかと感じています。
そのために必要なこと、それは『共に生きる』ことだと思っています。そんな思いを込めて、このコーナーをつくりました。できれば、連載にしたいと思っています。続けばいいなぁ。
本当は、『生きる』ではなく、『生かされている』と感じています。人は社会的な動物だから、一人では生きていけません。自分ひとりの力で生きている人なんて、この世のどこにもいません。会社は社長ひとりでは成り立ちません。社員が働いてはじめて成り立つのです。気付くか気付かないかは別として、支え、支えられて、全ての人が生きている。
同じように、この地球という自然があるからこそ、私たちは生きていける。豊かさを求めるために、便利さを追求するために森林は破壊され、地球は悲鳴をあげていると感じています。
当たり前だと思っていることが、本当は当たり前なんかではないということに、そろそろ気付かなければならない時期にきているのではないでしょうか。自分に何ができるのか、一緒に考えてみませんか。取り返しがつかなくなる前に。

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